さよならの次にくる 卒業式編

人間は悲しいから泣くのではなく泣くから悲しい

 卒業式は盛り上がった。毎年こうなのか、今年だけがこうだったのかは分からない。  
 このまま永遠に続くかと思われた氏名の連なりが不意に終わり、九組の代表が卒業証書を受け取りくるりと回転して列の端にくっつく。卒業生の列からはすでに洟をすする音が漏れている。
「校歌斉唱」の声。音楽科の宇都宮教諭が出てきて、魂をぶちこんだような熱いタッチで前奏を奏でる。高校生活最後の校歌。卒業生の驚くべき声量に引きずられて在校生も本気になった。建物全体が振動し、いつの日からか天井に挟まったままのバレーボールが落ちてきそうな熱唱だ。負けじと僕も声を出す。三年生を送るのだから、と思った。休符や間奏に入ると洟をすする音が一つまた一つと連続する。洟をすする音は聞く者に対しても一定の催涙作用をもたらすらしく、若干目頭が熱くなった。しかし卒業式のクライマックスはここではなく、これに続く合唱なのだ。高校の卒業式に出た経験がない人なのか司会の「合唱」の声に来賓一名が手を合わせた。曲目は卒業生が投票で決め毎年違うらしいが今年は森山直太朗の〈さくら〉である。卒業式に相応しいというだけでなく、おそらく列席した父兄も歌えるようにとの配慮が働いたのだろう。普段不真面目な市立の生徒がこういう時だけ真面目になるからそれもまた涙を誘うと教師の誰かが言っていた。宇都宮教諭が大胆な身振りで鍵盤に情感を叩きつける。校歌を超える大音量になったが洟をすする音もより頻繁になった。
 曲が盛り上がり涙がせり上がってくるのが分かる。周囲の一年生は誰一人泣いていないから僕だけ泣いたら恥ずかしい。眼輪筋に意識を集中し、泣いてなるものかとこらえた。伊神さんいわく人間は悲しいから泣くのではなく泣くから悲しいのだそうで、要するに落涙は反射運動に過ぎないのだ。しかしそういう話ももう聞けなくなるなあと思ったら途端に涙が溢れた。不覚だった。

似鳥 鶏. さよならの次にくる〈卒業式編〉 市立高校シリーズ (創元推理文庫)

ねこです。

おねいさんも、いくどとなく そつぎょうを むかえてきました。
そのたびに、「いま、ここ」の しゅうえんを にんしきし、
その いとしさや せつなさや こころづよさを かみしめて きたのです。

そつぎょうしきいらい、あっていない ひとも おおくいます。
いまごろ どうしてるのかなー、と かんがえることは あまりなくても、
もしかしたら、むさしこすぎえきの なんぶせんと よこすかせんホームの
れんらくつうろで すれちがっているかもだけど
おたがい きづかないので このさき かかわりのないことのほうが おおいです。
そつぎょうとは ひとの かんけいせいを きょうせいてきに かいしょうさせる
あるしゅの リセットボタンの ようです。

そつぎょうしきというのは、そういった かんけいせい かいしょうのぎしき
というせつが ふじょうしてきました。
これは さいごにして とても たいせつな ぎしき。
よのなかには きねんライブを やる アイドルの そつぎょうぎしきや、
まよなかに こうしゃの まどガラスを わったりするような、
この しはいからの そつぎょう っていう ぎしきも、
どこかで あるとか ないとか……

ねこには そつぎょうするもの なにか あるかな?


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